読んだ本 村田沙耶香『コンビニ人間』

結構前に読みはじめて、さくさく読み進めることができる現代日本の小説なのだが、内容が実にクリティカルかつ有意味に気持ち悪く、なかなかページがめくれないため読了に時間を要した。


コンビニ人間

コンビニ人間


あらすじ。
おそらく自閉症スペクトラム障害的な何かに該当する女性の主人公は、幼少期から持ち前の空気読めなさから社会に適合できず(どちらかというと周囲が)苦労してきたが、大学も出ていい歳になってからコンビニバイトという天職との邂逅を果たす。コンビニバイトというシステムの部品として完璧なパフォーマンスを果たすということにはじめて達成感を感じた主人公であったが、あるトラブルからコンビニバイトから離れることとなってしまい…みたいな感じだろうか。



作中に出てくるダメニートが口にする「縄文時代」という比喩があるが、現代においてもその「縄文」的な価値観は確固として残っており、「働かない・結婚しない・産まない」というフリーライダーが至上の悪と位置付けられるのは変わらない。


そんな世界において空気の読めない「アスペ」的な主人公の一人称で語られる本作は、むしろ反対に、ロジカルなアスペルガー的世界の側から観察したときの「縄文時代」の非論理性、醜さ、いやらしさ、狡猾さといったものがより明瞭に適示されるため、時代診断的な機能を持っている。


また本作の主人公は女性であり、「縄文」世界というシステムにおいて最も不要とされる「石女」(うまずめ=産めない女)であるからこそ、この作品の強烈な「居心地の悪さ」につなっているんじゃないかと思った。これが男(=白羽)が主人公だったら、結局はマッチョな雄という役割をこなせない自分に対するナルシスティックな自己憐憫話にしかならない。


本作ラストの、システムの部品としてまたコンビニの世界に還ることが小説的カタルシスをもって描かれることが、逆に(「縄文」サイドから見た時の)「それでいいのか」という逆説にもなっているというのがなかなか良くできている。





本書主人公の「自分という人間が、システムの部品としてふるまえたことに感動と達成感を覚える」という感覚は自分でも覚えがある。
たとえばICタッチの改札をミスらずに通ることができたとき、くら寿司のタッチパネルで一言もしゃべらずに注文し食事を済まし下膳と会計まで終えて出られたとき、などなど。


コンビニの要求は明確かつ厳格であるのに、「縄文」の要求はぼんやりとしている。

見た映画 ナ・ホンジン監督『哭声/コクソン』

なかなかわけがわからなかった。

以下ネタバレあり。



あらすじ。

現代韓国の小さな村で、不気味な殺人事件が連続して発生する。事件は狂気に陥った犯人は自分の家族を皆殺しにするというものであり、マトモな動機は見つからない。
警察官である主人公は捜査を進めるうち、事件の周囲に謎の日本人(國村隼)の影を認めるが…




本作冒頭のエピグラフはいきなり『ルカによる福音書24章』の引用から始まる。
復活したイエスに驚く信徒達に、イエスが答える場面。

彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
そこでイエスが言われた、
「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。
 さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
こう言って、手と足とをお見せになった。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3


本作を最後まで見ると、この引用が示すところの「あやしげなものをブレずに信じること」の困難が描かれていたんだな、というのがぼんやりとわかる。

監督のインタビューで明かされているように、本作のモチーフは、ユダヤ人(村人)によるキリスト(=國村隼)殺害と復活であるらしい。



まあ確かにユダヤ教を信じる旧体制側の従順な民からすれば、イエス・キリストというのは共同体秩序を乱す冒涜的なテロリストのように見えたのかもしれない。



映画を見た後にいろいろ調べてみるとニワトリが3回鳴いたり魚を食べるシーンが意味深に入っていたりというようなキリスト教的なモチーフが散りばめられていたのだなというのが事後的にわかった。



しかし見ている最中の感慨は、怪しげでパワフルで乱暴で混沌とした韓国映画の面白さが存分に発揮されていて、うんちく的要素がわからなくても、最終的にどこに連れていかれるのかがまったく分からないスリルが味わえたので、かなりよかった。

読んだ本 三島由紀夫『沈める滝』

職場の怖い上司がこれを「面白かった」といっていたのを今年の春頃に聞いて、上司のキャラとの落差含めて記憶に残っていた書名だったのだが、本屋で見つけてついに読んだ。
三島由紀夫は『金閣寺』しか読んだことない。

〜あらすじ〜 Wikipediaより

『沈める滝』(しずめるたき)は、三島由紀夫の長編小説。原題は旧漢字の『沈める瀧』である。愛を信じないダム設計技師が建設調査の冬ごもりの間、或る不感症の人妻と会わないことで人工恋愛を合成しようとする物語。ダム建設を背景にした一組の男女の恋愛心理の変化を軸に、芸術と愛情の関連を描いた作品である[1]。人間を圧倒する超絶的な自然環境の中で推移する男の心理、やがてダムによって沈む小さな滝に象徴される女、人間主義的な同僚との絡み合いを通じ、冷徹な物質の世界と感情に包まれた人間の世界との対比や、社会的効用主義に先んずる技術者(芸術家)の純粋情熱が暗喩的に描かれ、自然と技術(芸術)との相互関係が考察されている。

主人公の城所昇(きどころ・のぼる)は、現代的に言えば自閉症スペクトラム的な共感能力を書いた即物的世界に生きる男として描かれているが、それは彼の秘めたるナチュラルボーンな「石と鉄」の世界であり、諸能力もまた高い彼は、長じるにつれ外面的には周囲の空気を読んだうえで協調のしぐさで繕える、どころかむしろ周囲には不思議だが感じのいい人間として受容される程度には状況をコントロールできるようになる。なんとも高スペック野郎である。
当然そんな奴は一晩限りの関係を幾度も重ねる俗にいうヤリチンになるのであるが、関係を継続するという欲求自体が昇にないので、個々の女に感想を抱くこともないのだが、ある日出会った性的不感症の人妻のなかに、かつて自分が生きた「石と鉄」の世界を再見し、そのあるがままの「石と鉄」ぶりに感銘を受け、自分もまたかつていた「石と鉄」の世界に帰ろうとする話である。


この不干渉女とのセックスシーンの文章表現がじつにすごい。
三島由紀夫の文章能力の高さがここからだけでも伺いしれるというもんである。


 昇はこの種の女が、もう少しで手が届きそうで届かない陶酔に対する焦燥を、誇張した陶酔の演技で以て補おうとするさまを、幾度か見て知っている。彼女たちは海を見ようとする。すると沙漠が迫ってくるのである。それを海と思おうとする。しかし砂が口をおおい、鼻孔をおおって、彼女を埋めてしまう。彼女は男だけの快楽を、恐怖を以て想像する。まるで馬蹄にかけられる恐怖と謂おうか。むこうには異様な忘我の世界があり、こちらには庭に置かれた庭石のような存在がある。彼女たちは向こうの世界を模倣しようと思う。追いかけたいと思う。しかしそれは無限に遠のき、大きな厚い硝子の壁が目の前に降りてくる。
 昇はいつも敏感にそれを察知すると、女の演技に欺されたふりをするようにすぐさま心支度をするのである。自己欺瞞をあばき立てて、こちらまでも沙漠に直面しなければならぬ義理はないのだ。彼がねがうのは相手が演技を少しでも巧くやってくれることしかなかった。
 しかし顕子はちがっていた。目をつぶって横たわり、小ゆるぎもしなかった。完全な物体になり、深い物質的世界に沈んでしまった。
 焦慮するのは昇のほうであった。彼は墓石を動かそうと努めて、汗をかいた。彼がこれほど純粋な即物的関心に憑かれたことはなかった。よくわかることは、自分の無感動をあざむこうとしていないことである。彼女は絶望に忠実であり、すぐさま自分を埋めてしまう沙漠に忠実である。この空白な世界に直面して、自分が愛そうと望んだ男を無限の遠くに見ながら、顕子は恐怖も知らぬげに見えた。生きている肉体が、絶望のなかにひたっている姿の、これほどの平静さが昇を感動させた。

この女に一抹の可能性を感じた彼は、職場のダム建設工事に参加して冬山に籠り、会えない焦らしプレイの果てに、自然な愛を知らぬ自分にとっての「人工の愛」を創造し、この不感症女と分かち合えるのではないかという夢を抱くのだが…。


面白いのが、この墓石女がこの焦らしプレイにより肉に開花して「石と鉄」世界から離脱してしまい、幻滅した彼と「石と鉄」世界を共有できなくなってしまうという展開である。
またそこに俗物界のチャンピオンみたいな男があらわれる。



滝が沈む、肉を芸術が埋めて殺すというようなものか?
しかしここにおける「芸術」がダム建設=科学に対応させられているというのもまた面白いな。

いや、すべて、本当に、ある話である。

7月の読書メーター
読んだ本の数:5冊
読んだページ数:1857ページ
ナイス数:2ナイス

エロティシズム (中公文庫)エロティシズム (中公文庫)
読了日:07月31日 著者:澁澤 龍彦
ウォーキング・デッドウォーキング・デッド
1)本が物理的に重い 2)内容が重い 3)画風が重い(2部以降)  等いろんな意味で疲れる作品。嫁が全く可愛くない上に無性に腹立たしくアポカリプス。ゾンビではなく人間ドラマがメインというのはまさにそのとおりなんだが、精神的にしんどくもなる。
読了日:07月31日 著者:ロバート・カークマン
TAP (奇想コレクション)TAP (奇想コレクション)
イーガンのキャリア的には初期の作品が多いようだ。あらゆる超越性を否定し「宇宙は人間に無関心だ」と喝破する作品群にまで、別種の超越性を錯視してしまわざるをえないのが人間なのだなぁと。
読了日:07月31日 著者:グレッグ イーガン
火星のタイム・スリップ (ハヤカワ文庫 SF 396)火星のタイム・スリップ (ハヤカワ文庫 SF 396)
読了日:07月17日 著者:フィリップ K.ディック
愛はさだめ、さだめは死 (ハヤカワ文庫SF)愛はさだめ、さだめは死 (ハヤカワ文庫SF)
読了日:07月06日 著者:ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア

2012年7月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター

2011読んだ本

 せっかくなのでまとめてみた。
 去年は、年度末の業務進行によりただでさえ死にかけていたのに加え、くだんの大震災。
 震災対応で24時間オーバー業務に駆り出されたり新年度の担当変更でテンパっていたりと、なんだかもうよく分からないまま6月を迎えていたような気がする。
 また”私”の方でもいろいろと激動の一年で、本を読む「活気」と「時間」の確保にヒジョーに難儀した年でもあった。

2011年の読書メーター
読んだ本の数:49冊
読んだページ数:14212ページ
ナイス:87ナイス
感想・レビュー:30件
月間平均冊数:4.1冊
月間平均ページ:1184ページ


モロー博士の島―他九篇 (岩波文庫)モロー博士の島―他九篇 (岩波文庫)
★★☆☆☆
ラブクラフトもそうだけど、実話調な体裁が取られているのが面白い。そういやデス博士の下準備用に読んだんだっけ。
読了日:01月04日 著者:H.G.ウエルズ


死者の奢り・飼育 (新潮文庫)死者の奢り・飼育 (新潮文庫)
★★★★☆
大江健三郎。冷えて乾いた感じのエログロちょっとバイオレンスで、思いの外好みだった。体臭が猛プッシュされていて読んでて辛かった。
読了日:01月09日 著者:大江 健三郎


20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻 (河出文庫)20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻 (河出文庫)
★★★☆☆
クラーク、バラードが非常によかった。バラードは前に読んだ結晶世界が全く響かず、合わないのかなと思っていたのだけれど、収録の『砂の檻』は猛烈に良かった。
読了日:01月15日 著者:アーサー・C. クラーク,ロジャー ゼラズニイ,ハーラン エリスン,サミュエル・R. ディレイニー,J.G. バラード


砂の女 (新潮文庫)砂の女 (新潮文庫)
★★★★☆
砂を食むような生活も、衣食住と性的充足さえ適当に賄われてしまうと惰性の渦に絡め取られる。外からの鴉を捕まえる手製の罠の名前が「希望」ってなにそれこわい。そして個人的には最近これが笑い事じゃなくなってきてさらにこわい。
読了日:01月19日 著者:安部 公房


宇宙創世記ロボットの旅 (ハヤカワ文庫 SF 203)宇宙創世記ロボットの旅 (ハヤカワ文庫 SF 203)
★★★☆☆
『捜査』を猛烈な睡魔と格闘しつつ読んだ記憶も新しく苦手意識の強かったレムだが、これくらい砕けてると楽しく読める。あー円城ってこういうのの流れなのかと今更ながらに一人納得していた。
読了日:01月23日 著者:スタニスワフ・レム


機龍警察(ハヤカワ文庫JA)機龍警察(ハヤカワ文庫JA)
★★★☆☆
面白く読んだ。冒頭、テロ発生の下りのテンポよくムダがない文章はしびれる。尻切れトンボなラストはまあ続編を見越してのものなんだろう。ところどころ過剰にアニメっぽいのは良いのやら悪いのやら。自爆条項は文庫に落ちてから読む。
読了日:01月24日 著者:月村 了衛


箱男 (新潮文庫)箱男 (新潮文庫)
★★☆☆☆
なんだかよく分からず。
読了日:01月27日 著者:安部 公房


科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)
★★★☆☆
科学とか所詮経験の寄せ集めだよねーアプリオリな真理とはいえないよねーみたいなクダを巻かないようになるために。
読了日:01月31日 著者:戸田山 和久


高野聖・眉かくしの霊 (岩波文庫)高野聖・眉かくしの霊 (岩波文庫)
★★☆☆☆
初鏡花。読み下すのが大変。
読了日:02月10日 著者:泉 鏡花


メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット (角川文庫)メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット (角川文庫)
★★☆☆☆
伊藤計劃は好きだしゲーム版もプレイしてるんだけど、正直これはあんまり好かない。無体だけどゲームのほうが面白いよね。シリーズの不条理を一身に集め、もはや原型を留めぬ継ぎ接ぎゾンビと化したオセロット氏に泣いた。
読了日:02月11日 著者:伊藤 計劃


マルドゥック・スクランブル The 1st Compression 〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)マルドゥック・スクランブル The 1st Compression 〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)
読了日:02月17日 著者:冲方 丁


マルドゥック・スクランブル The 2nd Combustion 〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)マルドゥック・スクランブル The 2nd Combustion 〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)
読了日:02月21日 著者:冲方 丁


マルドゥック・スクランブル The 3rd Exhaust 〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)マルドゥック・スクランブル The 3rd Exhaust 〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)
★★★☆☆面白かったが。
読了日:02月24日 著者:冲方 丁


人間そっくり (新潮文庫)人間そっくり (新潮文庫)
★★☆☆☆
避難所で読んでいたのを思い出す。
読了日:03月22日 著者:安部 公房


WORLD WAR ZWORLD WAR Z
★★★★★
去年の収穫その1。実に面白かった。映画化は果たしてどうなるやら。
読了日:03月29日 著者:マックス・ブルックス


厚岸のおかず厚岸のおかず
★★☆☆☆
バカ本。表題作は結構良い。
読了日:04月14日 著者:向井 秀徳


玩具修理者 (角川ホラー文庫)玩具修理者 (角川ホラー文庫)
★★★☆☆
小林泰三。『酔歩する男』の時間往還SF×和製おどろおどろしさのブレンド具合が絶妙。
読了日:04月23日 著者:小林 泰三


アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風 (ハヤカワ文庫JA)アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風 (ハヤカワ文庫JA)
★★☆☆☆
神林読者でないので何がなにやら不意打ちを食らった感じ。ラストの雪風飛翔の爽快感が救い。
読了日:04月23日 著者:神林長平


S-Fマガジン 2011年 03月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 03月号 [雑誌]
★★★★☆
ジェイムズ・モロウの『ヒロシマをめざしてのそのそと』が実に良かった。現実に立ち向かうフィクションの力、ってこういうことだよ。アメリカ特撮映画に詳しいとまた楽しめたんだろうな
読了日:05月06日 著者:


SFはこれを読め! (ちくまプリマー新書)SFはこれを読め! (ちくまプリマー新書)
★★☆☆☆
まあ読んだ。読まなくても良かった。
読了日:05月24日 著者:谷岡 一郎


平ら山を越えて (奇想コレクション)平ら山を越えて (奇想コレクション)
★★★☆☆
逮捕収監されたテロ実行犯のクローンが、処刑復讐用に遺族たちに配られるという『マックたち』がとても良い。
読了日:06月01日 著者:テリー・ビッスン


S-Fマガジン 2011年 04月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 04月号 [雑誌]
北野勇作
読了日:06月02日 著者:


S-Fマガジン 2011年 05月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 05月号 [雑誌]
モロウ、最後まで良かった。ドクトロウもSFなんだとすると(勿論そうなんだけど)、自分が好きなのは果たしてSFなのかということに思い至った。
読了日:06月05日 著者:


ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))
★★★☆☆
ラブクラフト。持久力抜群の情景描写が僕を苦しめた。
読了日:06月12日 著者:H・P・ラヴクラフト


Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)
★★★★☆
なんだかよく分からんが、構造的に複雑で感傷的な話は大好き。
読了日:06月17日 著者:円城 塔


相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)
★★★☆☆
息切れしつつもなんとか読み終える。著者の細部をつつき続ける思考スタミナに並走するのは非常に疲れた。
読了日:06月20日 著者:入不二 基義


S-Fマガジン 2011年 06月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 06月号 [雑誌]
読了日:06月28日 著者:


S-Fマガジン 2011年 07月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 07月号 [雑誌]
読了日:07月03日 著者:


ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)
★★★★☆
極度の疲労を押してホテルの廊下を這いずる主人公に、人生の機微を見た(何
読了日:07月09日 著者:フィリップ・K・ディック


S-Fマガジン 2011年 08月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 08月号 [雑誌]
読了日:07月24日 著者:


象られた力 kaleidscape (ハヤカワ文庫 JA)象られた力 kaleidscape (ハヤカワ文庫 JA)
★★★★★
去年の収穫その2。初飛浩隆。表題作が抜群に良く、クライマックスは終始脳がトリップしていた。
読了日:08月03日 著者:飛 浩隆


ラヴクラフト全集 (2) (創元推理文庫 (523‐2))ラヴクラフト全集 (2) (創元推理文庫 (523‐2))
★★☆☆☆
小中理論ってこういうことかぁ〜とまた得心。端折れそうな細部のつるべ打ちに疲れた。
読了日:08月16日 著者:H・P・ラヴクラフト


ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)
★★★☆☆
ハードすぎて理解できない部分が多々あった。多世界解釈に懊悩するリアリティはよくわからん。
読了日:08月28日 著者:グレッグ イーガン


S-Fマガジン 2011年 09月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 09月号 [雑誌]
読了日:08月29日 著者:


七瀬ふたたび (新潮文庫)七瀬ふたたび (新潮文庫)

読了日:08月31日 著者:筒井 康隆


S-Fマガジン 2011年 10月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 10月号 [雑誌]

読了日:09月07日 著者:


太陽の塔 (新潮文庫)太陽の塔 (新潮文庫)
★★★☆☆
森見登美彦。そして多分最後。小指を負った日に読んだ。
読了日:09月08日 著者:森見 登美彦


砂漠の惑星 (ハヤカワ文庫 SF 273)砂漠の惑星 (ハヤカワ文庫 SF 273)
★★★★☆
俺でも分かるレム。ただ前に半分くらいで力尽きた『エデン』とかぶる部分が多いようで、またエデンを読むのが怖くなった。
読了日:09月09日 著者:スタニスワフ・レム


しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)
★★★★☆
実に面白く大好きな作家なのだけど、「<私のコピー>が<私>と同型の内面を備えている」ってことと、「<コピー>が<私>である」ってのを意図的に混同させてるのがずーっと気になっている。ワザとなのか?
飛浩隆の「情報的似姿」はここを潔く割り切ってるんだけど。
読了日:10月01日 著者:グレッグ イーガン


エロチック街道 (新潮文庫)エロチック街道 (新潮文庫)
★★★☆☆
才気の爆発に眩暈が
読了日:10月04日 著者:筒井 康隆


悪夢機械 (新潮文庫)悪夢機械 (新潮文庫)
★★★★☆
「くずれてしまえ」と「少数報告」がfav。スピルバーグより断然面白いぞ。
読了日:10月11日 著者:フィリップ・K. ディック,浅倉 久志


春琴抄 (新潮文庫)春琴抄 (新潮文庫)
★★★★☆
共依存すなぁ
読了日:10月13日 著者:谷崎 潤一郎


2999年のゲーム・キッズ 完全版 DX (講談社BOX)2999年のゲーム・キッズ 完全版 DX (講談社BOX)
★★☆☆☆
アイディア一発勝負で、転がし方は結構普通。ただ連載スピードとショートショート形式ってのを踏まえると十分すごいのだろう。中編はなんだかイマイチだった。
読了日:10月23日 著者:渡辺 浩弐


S-Fマガジン 2011年 11月号 [雑誌]S-Fマガジン 2011年 11月号 [雑誌]

読了日:11月17日 著者:


グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)
★★★☆☆
「●●の〜はAだがBでなく、まるで××の△のようだった」的な文章の連続で腹いっぱいになり、結構これだけだとしんどい。
読了日:11月18日 著者:飛 浩隆


ラギッド・ガール 廃園の天使 2 (ハヤカワ文庫 JA ト 5-3) (ハヤカワ文庫JA)ラギッド・ガール 廃園の天使 2 (ハヤカワ文庫 JA ト 5-3) (ハヤカワ文庫JA)
★★★★★
去年の収穫その3。前作の超ハードな種明かしは想像を超えていた。現実パートはイーガンとガチンコしとる。いかにも日本的な気味悪さ。
読了日:12月06日 著者:飛 浩隆


ロボット兵士の戦争ロボット兵士の戦争
★★★★☆
戦争に限った話ではなく、テクノロジーによって世界は変るという話。決定や責任の主体たる人格が間に挟まっていることでなんとなくOKにされていた諸々が、完全自動にしてみると途端に反直観的になってしまう、っていうような。
読了日:12月17日 著者:P・W・シンガー


WATCHMEN ウォッチメン(ケース付) (ShoPro Books)WATCHMEN ウォッチメン(ケース付) (ShoPro Books)
★★★★★
収穫その4。今年読んだ本であえて選ぶならベストはこれ。読むたびに基地外じみた細部の仕掛けが見つかるのが恐ろしい。ところどころに仕掛けられたサブリミナルにくらくら・・・
読了日:12月26日 著者:アラン・ムーア


バタイユ (学術文庫)バタイユ (学術文庫)
★★★☆☆
澁澤訳の『エロティシズム』を読みかけてサッパリだったので、とりあえず入門書から。
読んでみて思ったのは、現代思想に踏み込めるほどの基礎体力がないということ。
読了日:12月30日 著者:湯浅 博雄



2011年に読んだ本まとめ
読書メーター

反省
ジャンル小説以外読まなすぎ
人文書を読まなすぎ
・気取って難しいところから読んで放棄しすぎ
・読まなすぎ

今年はもうちょっと頑張ります。

ヨブ記vsテッド・チャン

いまさら何故更新するのかといわれると、特に理由もないのだが、昔書いた駄文を貼っても罪に問われたりはしないでしょう。
チョーエツとかいってるあたりは苦笑いで読み飛ばしていただけると幸いです。
テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』の猛烈なネタバレがあるので注意。

0、はじめに
1、ヨブ記の謎
2、テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』
 2.1、作品における表現様式からの検討
3、現代における宗教と科学・・・
4、現代のヨブ記

 自分はキリスト教の思想内容、信仰内容についてはまっっったく詳しくないのだが、欧米圏の文化に触れていると、否が応にもそうした宗教伝統に基づく議論に出くわすことがあり、それは古典的な作品に限らずサブカルチャー界隈でも頻繁に起きる。以下はあるSF小説をよんで考えた信仰の問題について書かれている。


1、ヨブ記の謎

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

 無謀にもヨブ記の議論の骨格のみを抽出してみると、それはだいたい以下のような物語だ。

 敬虔な神のしもべであったヨブは、幸福な暮らしを送っていた。ヨブは少しの恥ずべきことも行わず、神の律法にひたすら忠実であった。ヨブは自身の幸福を信仰の誠実さに対する報酬のようなものだと考えていたようである。しかし神はそんなヨブの信仰の真正性を確かめるべく、なんとヨブに災いをくらわせ始める。ヨブの子らはみな非業の死を迎え、財産は残らず失われ、その身は病に冒された。さしものヨブもついにその信仰の正当性に疑問を感じるに至る。ヨブの友たちは彼の不敬を諌めるべく、「ほんとうに、信仰にやましいところはなかったのか」「もしかして神を疑っていたのではないか」などと彼の行いに不正を見出そうとし、神はその報いとして災いを下したのではないかとする。しかしヨブはそうした批判を断固棄却する。自身は神に恥ずべきことはけっして行っておらず、またそうだとして、これほどの激烈な災いに値するような悪行には断じて覚えがないという。怒髪天を突いたヨブは、自身に不当な災いが下るのを看過した神の不正を告発するに至る。

 すると神が現れる。

 神は暴風の中からヨブに問う。「汝は神か?」と。神の意図を人間如きが推し量れるのか?と。そして「天が下の一切はわたしのものだ」と自身の比類無さを宣言する。その圧倒的な威力によって、ヨブは自身の被造物としての矮小さに気付き、告発を取り下げ今後一切無条件に神を愛することを誓う。すると神は、ヨブの運命を転換させる。ヨブは新たな子を授かり、富は二倍になって戻り、病は癒えた。ヨブはその後、大変な長寿を全うした。めでたしめでたし。

 ここに見て取れるのは、信仰に対価を求めることなかれ、という世俗的な応報原理の否定であろう。ヨブに下された災いは彼の不徳に由来するものではなく、単に神のきまぐれとでもいうべきものであった。そのどん底における信仰のあり方を神は試したのであろう。
まずそもそもなぜ神は試すことなくヨブの信仰を計る(非破壊検査とでもいうのだろうか)ことをしなかったのか、おいおい新たな子をもらえばOKなのか、神はヨブに洗脳ビームを浴びせてはいないか?等々という極めてトリヴィアルな疑問はあるが、それは本質的な問題ではないだろう。神の意志はわれわれの推測の及ばぬところにある。
 私が一番不可解に感じたのは、最後にヨブが報われるというところだ。極限的な信仰を要求する本編と比べて、あまりに素朴な道徳観に適っていて、なにか取って付けたような違和を感じるのだ。岩波文庫版の解説によると、文献学的には、ヨブ記はとても古い民間伝承をもとに成立したものであることが明らかにされているらしく、無謬性を志向する神学理論とすっかり一致しないのはそれこそ当然であるともいえる。なので、私の批判は見当違いであるともいえるのだが、まあともかくヨブ記の読後にひっかかりを感じたのは事実だ。ハッピーエンドをさっぴいたら、ヨブ記の意味するところは一変するのではないか?この思考実験を実作中で行ったのがSF作家のテッド・チャンである。

2、テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』

 テッド・チャン( Ted Chiang 特紱姜、1967- )は中国系アメリカ人のSF作家で、1990年のデビュー以来、短編・中編で10本少々と寡作ながら、高度な思弁性と抜群のSF的想像力をもった作風が評価され、SF界の権威ある様々な賞を受賞、詳しくはウィキペデイアを参照だ。彼の作品で日本語で読めるものは、ハヤカワ文庫から出ている『あなたの人生の物語 Story of Your Life』という短編集のみ(追記:最近は中短編がいくつか邦訳されているぞ)であるが、これまたハヤカワのベストSF・00年代翻訳SF部門で堂々の第一位を獲得している。その中に収められているのが『地獄とは神の不在なり Hell is the Absence of God』である。まず簡単にその概要を紹介する。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あらすじ 
 作品の舞台は現代アメリカであり、そこは基本的にわれわれが暮らす世界とあまり変わりがない。ただし、そこでは神や天使、天国、地獄といったキリスト教的な世界観が自然現象として具現化している。この世界では定期的・突発的に「天使」が地上に降臨する。しかしその天使は人格的な存在ではなく、コミュニケーション不可能な巨大なエネルギーの塊のような存在である。天使は地上降臨に際し莫大なエネルギーを振り撒く。それを直接に浴びた人々の中には、難病を治癒されたり、死後の天国行きを保証されたり、眼球の喪失と引き換えに悟り(エピファニー)に到達したりするなどの奇跡の恩恵を受けるものがいるが、同時に多くの命が奪われる。主人公ニール・フィスクは、天使降臨によって最愛の妻を失う。

 ありふれた降臨だった。たいていのものより規模は小さかったが、性質は異なっておらず、一部の人間に祝福をもたらす一方、一部の人間に災厄をもたらした。今回降臨した天使はナタナエルで、ダウンタウンの商店街に姿を現した。四つの奇跡的治癒が成就した──ふたりの人間の上皮性悪性腫瘍の除去、対麻痺患者の脊髄の再生、最近盲目になった人間の視覚の恢復。…/ニールの妻、セイラ・フィスクは八名の犠牲者の一人だった。天使のうねる炎にカフェの正面の窓が粉々にされたとき、飛んできたガラスがカフェで食事していたセイラに当たったのだ。セイラはものの数分もしないうちに失血死し、カフェにいたほかの客たちは…彼女の魂が天国へ昇って行くのを目撃した。
(ハヤカワ文庫『あなたの人生の物語』収録 「地獄とは神の不在なり」p.380)


 これを機にニールは妻を奪った神に激しい憎悪を抱くようになる。しかし神を憎悪していては死後に地獄に落とされてしまい、妻の待つ天国にいけない。そこで、神を憎悪しながら天国へ至るという目的を達成するためには、天使降臨の際に稀に照射される、「天国行きを保証する光線」を浴びる必要があると考えたニールは、「追光者(ライトシーカー)」とよばれる天使降臨現象を命がけで追跡する一団に参加するようになる。
 もう一人の主人公はジャニス・ライリー。母が彼女を身ごもっているときに天使降臨現象に遭遇したため、ジャニスは完全な両脚をもたずに生まれた。しかし彼女はそれを神の恩寵と考え、神の教えを広める伝道師として活動していた。しかしある日ジャニスは再び天使降臨に遭遇し、唐突に完全な両脚を与えられる。自身を支えてきた強固なアイデンティティの喪失に彼女は苦しむ。不可解な神の真意を問うべく、彼女もまた天使降臨を追う。
 そして二人は砂漠に降臨した天使に遭遇する。ニールは、嵐と雷を纏い砂漠を疾走する天使を至近距離から車で追跡していた。しかし目的を達する前に車は岩塊に激突、彼は瀕死の重傷を負う。失血死しようとするニールと、その最期を看取ろうと駆け寄ったジャニスに、唐突な天使の奇跡がもたらされる。

……と、そのとき、閃光が走り、ジャニスは大きなハンマーで薙ぎ払われたかのように脚を刈られた。…(略)…ジャニスがふたたび立ち上がったとき、イーサンはその顔を観て、新たなのっぺりとした肌から蒸気が立ち上っているのに気づき、ジャニスが天国の光に打たれたことを悟った。……その瞬間、あらたな天国の光の箭が雲の覆いを貫き、車の中で釘付けになっているニールを打った。千本もの注射針を使ったかのように、光はニールの肉に穴を穿ち、骨をこすった。…(略)…そして、その過程で、光はニールに、神を愛さねばならない理由のすべてを明らかにした。 ニールは人間が同じ人間相手に経験できるものを超越した激しさで神を愛した。無条件の愛というのでは不十分だった。なぜなら、「無条件」という言葉では、条件という概念が必要とされるのだが、そんな考えはもはやニールにはなかった。……ニールにとって、謎は解けた。生きて行く中でのあらゆることが愛であり、苦しみですら、いやむしろ苦しみこそ愛であることが分かったからだ。ゆえに、数分後、ついにニールが失血死したとき、彼は真に救済されるに値する資格を得た。しかし、ともかく、神はニールを地獄へ落とした。(前掲書p.423-424)

 天使はジャニスの再生した両脚を刈り取ったうえで「悟り(エピファニー)」を与え、ニールには「神を愛さねばならない理由のすべてを明らかにした」うえで、彼を地獄に落とした。
神への完全な愛に目覚めながら地獄に落とされたニールは、湧き上がる神への愛を止めることができず、とうとう神を怨むことも不可能となり、神と妻のいない地獄で永遠に苦しむこととなった。

 僕はこの作品のハードな天使描写が超クールだと思っており、この短編が一番好きだ。それはさておき、この物語はヨブ記への応答として書かれたものであることが、テッド・チャン本人によるあとがき(前掲書p.508-509)に記されている。

ぼく(著者)にしてみれば、ヨブ記で不満な点の一つが、最後に神がヨブに報いることだ。…(略)…なぜ神はヨブの財産を取り戻させるのか?ハッピーエンディングは何のためだ?このヨブ記の基本的なメッセージは、美徳は必ずしも報われるわけではないというものだ──悪い出来事は善人の身にもふりかかる。ヨブは…(略)…結果的に報われた。それってメッセージの強さを弱めやしないか?/もし…(略)…美徳は必ずしも報われるものではないという考えを本気で主張しようとするなら、話の結末でヨブはすべてを奪われたままの状態でいるべきではないだろうか?(強調は引用者による)


 前述したように、ヨブ記のストーリーに、教義にそぐわない部分があったとして、それは文学作品としての価値を棄損するものではないと思う。ただ、物語の骨格だけを抜き出して考えれば、ヨブ記のラスト(第42章10-17)のハッピーエンドにこうした批判的応答をすることも可能だろう。
 チャン流のヨブ記である『地獄とは神の不在なり』は、この点に対して容赦なく改変をくわえているわけである。ジャニスは何の理由も告げられぬまま再び脚を奪われ、ニールは愛する者を奪われた上に永遠の絶望に叩き落とされたまま物語は終わる。それにもかかわらず、彼らは「悟り」のために神への愛をもはや疑うことはできない。まさに洗脳ビームをくらわせているわけである。作品の結末部、二人に同行し一部始終を傍観していたイーサン・ミードはこう語る。

 (イーサンは)ニール・フィスクの身に起こったことを人々に語ったが…(略)…神を崇拝することをやめさせようとして語っているのではなかった。反対に、神を崇拝するよう人々を促した。…(略)…神を愛するのに思い違いをしてはならない、もし神を愛したいと思うのなら、神の意図がどんなものであっても愛する心構えをすべきである、ということだった。(一部語尾改変、強調は引用者。p.426)


この究極的な信仰のあり方は、われわれを大いにたじろがせるものだろう。ヨブ記のように最期に報酬が与えられることはない。それでも信仰は可能か、という問いかけである。

 次の章からは、私の個人的な作品観について述べてみたい。

2.1、作品における表現様式からの検討

チャンが、その数少ない作品のなかで、いくつか現代社会以外を舞台にした作品を書いているのは注目すべき点であると思われる。短編『七十二文字』では中世イギリスを舞台に、科学ではなく錬金術が学問として確立した世界を描き、短編『バビロンの塔』では古代の宇宙観にもとづいたバビロンの塔の情景を、現代科学的、物質的なリアリズム表現で描写している。<錬金術:科学>、<古代のコスモロジー:現代科学>といった、対立する二種類の世界観を無理やり接合した奇妙な世界観の作品が複数ある。チャンは『地獄とは神の不在なり』を書くに当たって、ヨブ記とおなじ古代の中東世界を舞台として描くこともできたはず(なにしろバビロンの塔も書いてるし)であるが、あえて現代のアメリカを舞台にして描いている。先ほどの対比でいうと、『地獄とは〜』においては<宗教的現象:世俗的世界>という二者が無理やり接合されているといえる。
そこで描かれる天使は非常に物質的であり、意図を持たない地震や竜巻などの自然現象のごときものとして描かれている。また天国や地獄も、風変りではあるもが、自然的な物理現象のように描かれており、それが本来持っていた神秘性は失われているように思われる。チャンの描くこうした奇妙な世界観は、現代における宗教的意味のあり方を示唆しているとは言えないだろうか。

3、現代における宗教と科学・・・

 その成立以来宗教が果たし続けてきた重要な機能は、「超越」について語る機能であっただろう。この世を離れた超越の彼方に究極的な存在を措定することで、目の前の現実から離れて真理や価値、倫理のあり方の根拠を位置づけようとした試みであるといえる。われわれの暮らす世界をいくら探しても、価値や規範を究極的に根拠づける絶対的なものは見出すことができない。しかしわれわれは、そうした価値や規範無くして生きていくこともできない。この断絶を埋めるのに効率的であったのが宗教的価値体系と、それに基礎づけられた社会制度であったといえる。
 だがこうした宗教の役割は、現代社会においてはそのままでは通用しない。近代科学の革命的な進歩によって、かつては神の意志によって説明されていた自然界の諸現象は、残らず科学の言語によって説明が可能となっていった。われわれの暮らす世界はすべて科学的に明晰に説明可能である、少なくともわれわれの多くは、そう信じて暮らしている。
 しかし一方で、物質的に満ち足りた現代先進国社会に暮らすわれわれは、いまだに多くの悩みを抱えて生きている。われわれは人生の様々な局面において悩み、苦しみ、怒り、悲しみ、煩悶しつづけている。人生はあいかわらず不条理である。ただそこでわれわれはかつてのように、宗教的な超越を呼び出すことは出来なくなってしまっている。

4、現代のヨブ記

 こうした観点から『ヨブ記』と『地獄とは〜』を見比べると、チャンの加えた変更の機能的な意味を論じることができないだろうか。
 ヨブ記において要求された信仰のあり方は、自己の利益ゆえに神を信じるのではなく、ただ神が神であるがゆえに信じることが要求される。神はヨブに加えた災いの直接的な理由については一切弁明せず、ただ自身が神であるがゆえにヨブに信仰を要求する。これは、合理性の極北に位置する信仰の形態といえる。(してみると、ヨブ記ラストの取って付けたようなハッピーエンドは、神の善性への素朴な信頼によってあとから書かれたのではないか?、などと邪推することもできる)
 転じて『地獄とは〜』。ここでも、神や天使は災いをもたらす一切の理由を説明しないし、結末部でイーサンが語った「無条件の神への愛」は、ヨブ記のそれと等しい。にもかかわらず、そこにはヨブを諭し、災いの埋め合わせをしてくれたあの神の姿はない。
 現代において神への愛を貫くことは可能だろうか。古代において極限的な合理性として考えられたあの信仰の気高さは、神を知らないわれわれにとって、ただの非合理と映ってしまうのではないか。ひどく乱暴な議論であまりオチはないが、自分はこう考えた。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を観に行って ・・・絶望した!(半分だけ)

 エヴァ破を見て、色々と思うところがあったので日記に書いてみる。
 わりと前作を忠実に踏襲していた「」と比べ、完全に逸脱した世界を描いているといっていい「破」。「序」の段階では、続きを見ないとなんとも言えない・・・としかいえなかったが(アニメーションとしてのクオリティーが高いのは言うまでもないだろう)、ここまで出揃ってようやく、感想を書くことができるようになったと思う。
 なお初日記なので、アレな日本語力とウゼぇ自分語り、過剰に自己防衛的な文体については、暖かく見守っていただく方向でお願いしたい。 
要約すると、
作品としては素晴らしい。でもそれに乗れない自分が悲しい。
ってかんじ。


*ネタバレ全開なので見てない人は注意*



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シンジくんの成長?

 「『序』は大して変わっていない」といったが、ヤシマ作戦以降はかなり雰囲気が違う。かつてのウジウジ悩むシンジ君ではなく、周囲の信頼すべき人たちとのコミュニケーションを通じ、エヴァに乗る理由をかすかながら見つけたように見える。

 「破」の序盤は日常パートで、旧作もそうであったように、平和でユーモラスなものとして描かれる。
 萌えシーンあり、サービスカットあり。綾波は突然料理の練習を始め、アスカはベタにシンジに惚れている。仕舞いには、あの頑固オヤジまで食事会にノコノコ出頭してくる始末だ。(レイとユイがオーバーラップするゲンドウ視点のカットの微笑ましさには、あやうく噴出しそうになった) 

 一番グサリと来たのは、Bパート以降、ゼルエル戦でのシンジ君の覚醒だ。グレンラガンを彷彿とさせるような愛のバトルは、旧作では考えられなかったような自己決定っぷりだ。

 怒涛のエンディングを迎え、劇場を出て家路へと向かう間、僕は完全に頭が混乱してしまった。家に帰っても何も手に付かず、不貞寝を決め込むことになった。少し落ち着いた今でも、アニメーションとして凄く面白かったという気持ちと、これは納得できない!という反感がぐるぐるしている。この気持ちの半分は、id:y_arimさんが「自分を全否定された気分になり絶望した」といっていたことに非常に近いものだ。(勝手な共感ですけども。)


・この気持ちはなん〜だろ〜♪

 90年代とゼロ年代の社会的状況の違いから作品を分析する方法論がある。論点の整理にはとても有効な図式だと思うが、それに基づいた作品の評価の高低や、分析から導出される「べき論」については、個人的には必ずしも同意&共感できない。僕はゼロ年代に入っても、年相応の常識と協調性は手に入れたものの、趣味の世界では90年代に流行ったダウナー・自意識肥大系を未だに地で行けてしまうタイプの人間だ。「決断しないという『決断』byソウヤー」的なメタメタ問題について考える脳力は持ち合わせていないし。


 エヴァ新劇場版製作決定の知らせを初めて聞いた時は、「マジ?オチどうすんの?」とか「とりあえず庵野がんばれ〜」といった程度で深く考えることもなかったのだが、「破」を見て、事の重大性に今更ながらに気づかされる。

 前作と同じならば意味がなく、前作と違うのならば共感できない。
 僕にとってはドン詰まりなのだ。

 「庵野秀明の作った新エヴァが見たい」、そしてそれが「旧作のような、ペシミスティックでダウナーな作品*1でいて欲しい」という願望を兼ね備えた人間にとって、これは非常にツラいジレンマだ。そもそもが勝手な思い込みによる期待と、都合のいい自己投影だということはさすがに自覚しているつもりではあるのだが・・


 庵野監督と彼の描くシンジ君は、この14年間で1つの壁を越えたようだ。それを踏まえて自分はどうか?旧エヴァにすがったまま、何の成長もしていないのではないか?未だにセカイ系を信奉している、単にイタくてダサい奴なのではないか?*2
 改めて自家撞着の隘路に叩き込まれる。そういう意味で、一部の人間にとってはメンタルヘルス的に非常にキツい作品だ。






 ちなみに新エヴァのクオリティーについては、僕の期待の250%を返してくれているので非常に満足している。*3庵野監督は、さらに上のステップへと進んだようだ。客層を見ても、あからさまにオタな人は少数で、ちゃんとリア充やってそうな人たちや、カップルが多かった。これはオタクだけではなく、多くの人に届く力を持った作品なのではないか。

 何だか混乱してあまり上手くまとまりませんね。後日、在りし日の元気を取り戻したら評価が変わるかもしれません。公開前は二、三回観に行こうと心に決めていたが、今は怖くて見にいけない。
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追記 

id:y_arimさん ブコメで反応してくださってありがとうございます。前からずっと読んでます。

id:angmarさんがブコメに書いてくれた、

ウジャウジャぶら下がった「俺シンジ君」達を突き放すという意味でEoEより遥かに完璧に成功したと思うよ。

これは本当にそう思う。旧作では映画全体の狂った雰囲気が何より心地よく、オタ批判的な含みは、僕にとってはあまり届いていなかったのかもしれない。ただ今回は完璧にクリーンヒット。劇場にまんまとおびき出されてぶん殴られました。

*1:蛇足かつ非常に個人的な見立てだが、旧劇場版の空気は、黄瀬和哉さんの作監修正の貢献が、非常に大きいものだった気がする。新劇場版のキャラクターは、現代風に洗練された線や影の少ない作画だが、旧劇場版の黄瀬さんによる、リアルで物質的な、影や表情の修正(原画集で差分が見れるよ)は、あの映画の空気にとてもシンクロしていた。もっとも、作品とのシンクロという視点からすれば、今作の画風も正しいのだろうが。

*2:こういう不毛なシャドーボクシングと、味方を巻き込んだ自己批判っぷりが、未成熟とキモさの何よりの証明となっているような気がするのだがw。加えて「セカイ系上等!」みたいなことを考えることもあるし

*3:翼をください天丼はどうなのよ?とか言う部分的な好き嫌いはあるものの