ヨブ記vsテッド・チャン

いまさら何故更新するのかといわれると、特に理由もないのだが、昔書いた駄文を貼っても罪に問われたりはしないでしょう。
チョーエツとかいってるあたりは苦笑いで読み飛ばしていただけると幸いです。
テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』の猛烈なネタバレがあるので注意。

0、はじめに
1、ヨブ記の謎
2、テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』
 2.1、作品における表現様式からの検討
3、現代における宗教と科学・・・
4、現代のヨブ記

 自分はキリスト教の思想内容、信仰内容についてはまっっったく詳しくないのだが、欧米圏の文化に触れていると、否が応にもそうした宗教伝統に基づく議論に出くわすことがあり、それは古典的な作品に限らずサブカルチャー界隈でも頻繁に起きる。以下はあるSF小説をよんで考えた信仰の問題について書かれている。


1、ヨブ記の謎

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

 無謀にもヨブ記の議論の骨格のみを抽出してみると、それはだいたい以下のような物語だ。

 敬虔な神のしもべであったヨブは、幸福な暮らしを送っていた。ヨブは少しの恥ずべきことも行わず、神の律法にひたすら忠実であった。ヨブは自身の幸福を信仰の誠実さに対する報酬のようなものだと考えていたようである。しかし神はそんなヨブの信仰の真正性を確かめるべく、なんとヨブに災いをくらわせ始める。ヨブの子らはみな非業の死を迎え、財産は残らず失われ、その身は病に冒された。さしものヨブもついにその信仰の正当性に疑問を感じるに至る。ヨブの友たちは彼の不敬を諌めるべく、「ほんとうに、信仰にやましいところはなかったのか」「もしかして神を疑っていたのではないか」などと彼の行いに不正を見出そうとし、神はその報いとして災いを下したのではないかとする。しかしヨブはそうした批判を断固棄却する。自身は神に恥ずべきことはけっして行っておらず、またそうだとして、これほどの激烈な災いに値するような悪行には断じて覚えがないという。怒髪天を突いたヨブは、自身に不当な災いが下るのを看過した神の不正を告発するに至る。

 すると神が現れる。

 神は暴風の中からヨブに問う。「汝は神か?」と。神の意図を人間如きが推し量れるのか?と。そして「天が下の一切はわたしのものだ」と自身の比類無さを宣言する。その圧倒的な威力によって、ヨブは自身の被造物としての矮小さに気付き、告発を取り下げ今後一切無条件に神を愛することを誓う。すると神は、ヨブの運命を転換させる。ヨブは新たな子を授かり、富は二倍になって戻り、病は癒えた。ヨブはその後、大変な長寿を全うした。めでたしめでたし。

 ここに見て取れるのは、信仰に対価を求めることなかれ、という世俗的な応報原理の否定であろう。ヨブに下された災いは彼の不徳に由来するものではなく、単に神のきまぐれとでもいうべきものであった。そのどん底における信仰のあり方を神は試したのであろう。
まずそもそもなぜ神は試すことなくヨブの信仰を計る(非破壊検査とでもいうのだろうか)ことをしなかったのか、おいおい新たな子をもらえばOKなのか、神はヨブに洗脳ビームを浴びせてはいないか?等々という極めてトリヴィアルな疑問はあるが、それは本質的な問題ではないだろう。神の意志はわれわれの推測の及ばぬところにある。
 私が一番不可解に感じたのは、最後にヨブが報われるというところだ。極限的な信仰を要求する本編と比べて、あまりに素朴な道徳観に適っていて、なにか取って付けたような違和を感じるのだ。岩波文庫版の解説によると、文献学的には、ヨブ記はとても古い民間伝承をもとに成立したものであることが明らかにされているらしく、無謬性を志向する神学理論とすっかり一致しないのはそれこそ当然であるともいえる。なので、私の批判は見当違いであるともいえるのだが、まあともかくヨブ記の読後にひっかかりを感じたのは事実だ。ハッピーエンドをさっぴいたら、ヨブ記の意味するところは一変するのではないか?この思考実験を実作中で行ったのがSF作家のテッド・チャンである。

2、テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』

 テッド・チャン( Ted Chiang 特紱姜、1967- )は中国系アメリカ人のSF作家で、1990年のデビュー以来、短編・中編で10本少々と寡作ながら、高度な思弁性と抜群のSF的想像力をもった作風が評価され、SF界の権威ある様々な賞を受賞、詳しくはウィキペデイアを参照だ。彼の作品で日本語で読めるものは、ハヤカワ文庫から出ている『あなたの人生の物語 Story of Your Life』という短編集のみ(追記:最近は中短編がいくつか邦訳されているぞ)であるが、これまたハヤカワのベストSF・00年代翻訳SF部門で堂々の第一位を獲得している。その中に収められているのが『地獄とは神の不在なり Hell is the Absence of God』である。まず簡単にその概要を紹介する。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あらすじ 
 作品の舞台は現代アメリカであり、そこは基本的にわれわれが暮らす世界とあまり変わりがない。ただし、そこでは神や天使、天国、地獄といったキリスト教的な世界観が自然現象として具現化している。この世界では定期的・突発的に「天使」が地上に降臨する。しかしその天使は人格的な存在ではなく、コミュニケーション不可能な巨大なエネルギーの塊のような存在である。天使は地上降臨に際し莫大なエネルギーを振り撒く。それを直接に浴びた人々の中には、難病を治癒されたり、死後の天国行きを保証されたり、眼球の喪失と引き換えに悟り(エピファニー)に到達したりするなどの奇跡の恩恵を受けるものがいるが、同時に多くの命が奪われる。主人公ニール・フィスクは、天使降臨によって最愛の妻を失う。

 ありふれた降臨だった。たいていのものより規模は小さかったが、性質は異なっておらず、一部の人間に祝福をもたらす一方、一部の人間に災厄をもたらした。今回降臨した天使はナタナエルで、ダウンタウンの商店街に姿を現した。四つの奇跡的治癒が成就した──ふたりの人間の上皮性悪性腫瘍の除去、対麻痺患者の脊髄の再生、最近盲目になった人間の視覚の恢復。…/ニールの妻、セイラ・フィスクは八名の犠牲者の一人だった。天使のうねる炎にカフェの正面の窓が粉々にされたとき、飛んできたガラスがカフェで食事していたセイラに当たったのだ。セイラはものの数分もしないうちに失血死し、カフェにいたほかの客たちは…彼女の魂が天国へ昇って行くのを目撃した。
(ハヤカワ文庫『あなたの人生の物語』収録 「地獄とは神の不在なり」p.380)


 これを機にニールは妻を奪った神に激しい憎悪を抱くようになる。しかし神を憎悪していては死後に地獄に落とされてしまい、妻の待つ天国にいけない。そこで、神を憎悪しながら天国へ至るという目的を達成するためには、天使降臨の際に稀に照射される、「天国行きを保証する光線」を浴びる必要があると考えたニールは、「追光者(ライトシーカー)」とよばれる天使降臨現象を命がけで追跡する一団に参加するようになる。
 もう一人の主人公はジャニス・ライリー。母が彼女を身ごもっているときに天使降臨現象に遭遇したため、ジャニスは完全な両脚をもたずに生まれた。しかし彼女はそれを神の恩寵と考え、神の教えを広める伝道師として活動していた。しかしある日ジャニスは再び天使降臨に遭遇し、唐突に完全な両脚を与えられる。自身を支えてきた強固なアイデンティティの喪失に彼女は苦しむ。不可解な神の真意を問うべく、彼女もまた天使降臨を追う。
 そして二人は砂漠に降臨した天使に遭遇する。ニールは、嵐と雷を纏い砂漠を疾走する天使を至近距離から車で追跡していた。しかし目的を達する前に車は岩塊に激突、彼は瀕死の重傷を負う。失血死しようとするニールと、その最期を看取ろうと駆け寄ったジャニスに、唐突な天使の奇跡がもたらされる。

……と、そのとき、閃光が走り、ジャニスは大きなハンマーで薙ぎ払われたかのように脚を刈られた。…(略)…ジャニスがふたたび立ち上がったとき、イーサンはその顔を観て、新たなのっぺりとした肌から蒸気が立ち上っているのに気づき、ジャニスが天国の光に打たれたことを悟った。……その瞬間、あらたな天国の光の箭が雲の覆いを貫き、車の中で釘付けになっているニールを打った。千本もの注射針を使ったかのように、光はニールの肉に穴を穿ち、骨をこすった。…(略)…そして、その過程で、光はニールに、神を愛さねばならない理由のすべてを明らかにした。 ニールは人間が同じ人間相手に経験できるものを超越した激しさで神を愛した。無条件の愛というのでは不十分だった。なぜなら、「無条件」という言葉では、条件という概念が必要とされるのだが、そんな考えはもはやニールにはなかった。……ニールにとって、謎は解けた。生きて行く中でのあらゆることが愛であり、苦しみですら、いやむしろ苦しみこそ愛であることが分かったからだ。ゆえに、数分後、ついにニールが失血死したとき、彼は真に救済されるに値する資格を得た。しかし、ともかく、神はニールを地獄へ落とした。(前掲書p.423-424)

 天使はジャニスの再生した両脚を刈り取ったうえで「悟り(エピファニー)」を与え、ニールには「神を愛さねばならない理由のすべてを明らかにした」うえで、彼を地獄に落とした。
神への完全な愛に目覚めながら地獄に落とされたニールは、湧き上がる神への愛を止めることができず、とうとう神を怨むことも不可能となり、神と妻のいない地獄で永遠に苦しむこととなった。

 僕はこの作品のハードな天使描写が超クールだと思っており、この短編が一番好きだ。それはさておき、この物語はヨブ記への応答として書かれたものであることが、テッド・チャン本人によるあとがき(前掲書p.508-509)に記されている。

ぼく(著者)にしてみれば、ヨブ記で不満な点の一つが、最後に神がヨブに報いることだ。…(略)…なぜ神はヨブの財産を取り戻させるのか?ハッピーエンディングは何のためだ?このヨブ記の基本的なメッセージは、美徳は必ずしも報われるわけではないというものだ──悪い出来事は善人の身にもふりかかる。ヨブは…(略)…結果的に報われた。それってメッセージの強さを弱めやしないか?/もし…(略)…美徳は必ずしも報われるものではないという考えを本気で主張しようとするなら、話の結末でヨブはすべてを奪われたままの状態でいるべきではないだろうか?(強調は引用者による)


 前述したように、ヨブ記のストーリーに、教義にそぐわない部分があったとして、それは文学作品としての価値を棄損するものではないと思う。ただ、物語の骨格だけを抜き出して考えれば、ヨブ記のラスト(第42章10-17)のハッピーエンドにこうした批判的応答をすることも可能だろう。
 チャン流のヨブ記である『地獄とは神の不在なり』は、この点に対して容赦なく改変をくわえているわけである。ジャニスは何の理由も告げられぬまま再び脚を奪われ、ニールは愛する者を奪われた上に永遠の絶望に叩き落とされたまま物語は終わる。それにもかかわらず、彼らは「悟り」のために神への愛をもはや疑うことはできない。まさに洗脳ビームをくらわせているわけである。作品の結末部、二人に同行し一部始終を傍観していたイーサン・ミードはこう語る。

 (イーサンは)ニール・フィスクの身に起こったことを人々に語ったが…(略)…神を崇拝することをやめさせようとして語っているのではなかった。反対に、神を崇拝するよう人々を促した。…(略)…神を愛するのに思い違いをしてはならない、もし神を愛したいと思うのなら、神の意図がどんなものであっても愛する心構えをすべきである、ということだった。(一部語尾改変、強調は引用者。p.426)


この究極的な信仰のあり方は、われわれを大いにたじろがせるものだろう。ヨブ記のように最期に報酬が与えられることはない。それでも信仰は可能か、という問いかけである。

 次の章からは、私の個人的な作品観について述べてみたい。

2.1、作品における表現様式からの検討

チャンが、その数少ない作品のなかで、いくつか現代社会以外を舞台にした作品を書いているのは注目すべき点であると思われる。短編『七十二文字』では中世イギリスを舞台に、科学ではなく錬金術が学問として確立した世界を描き、短編『バビロンの塔』では古代の宇宙観にもとづいたバビロンの塔の情景を、現代科学的、物質的なリアリズム表現で描写している。<錬金術:科学>、<古代のコスモロジー:現代科学>といった、対立する二種類の世界観を無理やり接合した奇妙な世界観の作品が複数ある。チャンは『地獄とは神の不在なり』を書くに当たって、ヨブ記とおなじ古代の中東世界を舞台として描くこともできたはず(なにしろバビロンの塔も書いてるし)であるが、あえて現代のアメリカを舞台にして描いている。先ほどの対比でいうと、『地獄とは〜』においては<宗教的現象:世俗的世界>という二者が無理やり接合されているといえる。
そこで描かれる天使は非常に物質的であり、意図を持たない地震や竜巻などの自然現象のごときものとして描かれている。また天国や地獄も、風変りではあるもが、自然的な物理現象のように描かれており、それが本来持っていた神秘性は失われているように思われる。チャンの描くこうした奇妙な世界観は、現代における宗教的意味のあり方を示唆しているとは言えないだろうか。

3、現代における宗教と科学・・・

 その成立以来宗教が果たし続けてきた重要な機能は、「超越」について語る機能であっただろう。この世を離れた超越の彼方に究極的な存在を措定することで、目の前の現実から離れて真理や価値、倫理のあり方の根拠を位置づけようとした試みであるといえる。われわれの暮らす世界をいくら探しても、価値や規範を究極的に根拠づける絶対的なものは見出すことができない。しかしわれわれは、そうした価値や規範無くして生きていくこともできない。この断絶を埋めるのに効率的であったのが宗教的価値体系と、それに基礎づけられた社会制度であったといえる。
 だがこうした宗教の役割は、現代社会においてはそのままでは通用しない。近代科学の革命的な進歩によって、かつては神の意志によって説明されていた自然界の諸現象は、残らず科学の言語によって説明が可能となっていった。われわれの暮らす世界はすべて科学的に明晰に説明可能である、少なくともわれわれの多くは、そう信じて暮らしている。
 しかし一方で、物質的に満ち足りた現代先進国社会に暮らすわれわれは、いまだに多くの悩みを抱えて生きている。われわれは人生の様々な局面において悩み、苦しみ、怒り、悲しみ、煩悶しつづけている。人生はあいかわらず不条理である。ただそこでわれわれはかつてのように、宗教的な超越を呼び出すことは出来なくなってしまっている。

4、現代のヨブ記

 こうした観点から『ヨブ記』と『地獄とは〜』を見比べると、チャンの加えた変更の機能的な意味を論じることができないだろうか。
 ヨブ記において要求された信仰のあり方は、自己の利益ゆえに神を信じるのではなく、ただ神が神であるがゆえに信じることが要求される。神はヨブに加えた災いの直接的な理由については一切弁明せず、ただ自身が神であるがゆえにヨブに信仰を要求する。これは、合理性の極北に位置する信仰の形態といえる。(してみると、ヨブ記ラストの取って付けたようなハッピーエンドは、神の善性への素朴な信頼によってあとから書かれたのではないか?、などと邪推することもできる)
 転じて『地獄とは〜』。ここでも、神や天使は災いをもたらす一切の理由を説明しないし、結末部でイーサンが語った「無条件の神への愛」は、ヨブ記のそれと等しい。にもかかわらず、そこにはヨブを諭し、災いの埋め合わせをしてくれたあの神の姿はない。
 現代において神への愛を貫くことは可能だろうか。古代において極限的な合理性として考えられたあの信仰の気高さは、神を知らないわれわれにとって、ただの非合理と映ってしまうのではないか。ひどく乱暴な議論であまりオチはないが、自分はこう考えた。