読んだ本 三島由紀夫『沈める滝』

職場の怖い上司がこれを「面白かった」といっていたのを今年の春頃に聞いて、上司のキャラとの落差含めて記憶に残っていた書名だったのだが、本屋で見つけてついに読んだ。
三島由紀夫は『金閣寺』しか読んだことない。

〜あらすじ〜 Wikipediaより

『沈める滝』(しずめるたき)は、三島由紀夫の長編小説。原題は旧漢字の『沈める瀧』である。愛を信じないダム設計技師が建設調査の冬ごもりの間、或る不感症の人妻と会わないことで人工恋愛を合成しようとする物語。ダム建設を背景にした一組の男女の恋愛心理の変化を軸に、芸術と愛情の関連を描いた作品である[1]。人間を圧倒する超絶的な自然環境の中で推移する男の心理、やがてダムによって沈む小さな滝に象徴される女、人間主義的な同僚との絡み合いを通じ、冷徹な物質の世界と感情に包まれた人間の世界との対比や、社会的効用主義に先んずる技術者(芸術家)の純粋情熱が暗喩的に描かれ、自然と技術(芸術)との相互関係が考察されている。

主人公の城所昇(きどころ・のぼる)は、現代的に言えば自閉症スペクトラム的な共感能力を書いた即物的世界に生きる男として描かれているが、それは彼の秘めたるナチュラルボーンな「石と鉄」の世界であり、諸能力もまた高い彼は、長じるにつれ外面的には周囲の空気を読んだうえで協調のしぐさで繕える、どころかむしろ周囲には不思議だが感じのいい人間として受容される程度には状況をコントロールできるようになる。なんとも高スペック野郎である。
当然そんな奴は一晩限りの関係を幾度も重ねる俗にいうヤリチンになるのであるが、関係を継続するという欲求自体が昇にないので、個々の女に感想を抱くこともないのだが、ある日出会った性的不感症の人妻のなかに、かつて自分が生きた「石と鉄」の世界を再見し、そのあるがままの「石と鉄」ぶりに感銘を受け、自分もまたかつていた「石と鉄」の世界に帰ろうとする話である。


この不干渉女とのセックスシーンの文章表現がじつにすごい。
三島由紀夫の文章能力の高さがここからだけでも伺いしれるというもんである。


 昇はこの種の女が、もう少しで手が届きそうで届かない陶酔に対する焦燥を、誇張した陶酔の演技で以て補おうとするさまを、幾度か見て知っている。彼女たちは海を見ようとする。すると沙漠が迫ってくるのである。それを海と思おうとする。しかし砂が口をおおい、鼻孔をおおって、彼女を埋めてしまう。彼女は男だけの快楽を、恐怖を以て想像する。まるで馬蹄にかけられる恐怖と謂おうか。むこうには異様な忘我の世界があり、こちらには庭に置かれた庭石のような存在がある。彼女たちは向こうの世界を模倣しようと思う。追いかけたいと思う。しかしそれは無限に遠のき、大きな厚い硝子の壁が目の前に降りてくる。
 昇はいつも敏感にそれを察知すると、女の演技に欺されたふりをするようにすぐさま心支度をするのである。自己欺瞞をあばき立てて、こちらまでも沙漠に直面しなければならぬ義理はないのだ。彼がねがうのは相手が演技を少しでも巧くやってくれることしかなかった。
 しかし顕子はちがっていた。目をつぶって横たわり、小ゆるぎもしなかった。完全な物体になり、深い物質的世界に沈んでしまった。
 焦慮するのは昇のほうであった。彼は墓石を動かそうと努めて、汗をかいた。彼がこれほど純粋な即物的関心に憑かれたことはなかった。よくわかることは、自分の無感動をあざむこうとしていないことである。彼女は絶望に忠実であり、すぐさま自分を埋めてしまう沙漠に忠実である。この空白な世界に直面して、自分が愛そうと望んだ男を無限の遠くに見ながら、顕子は恐怖も知らぬげに見えた。生きている肉体が、絶望のなかにひたっている姿の、これほどの平静さが昇を感動させた。

この女に一抹の可能性を感じた彼は、職場のダム建設工事に参加して冬山に籠り、会えない焦らしプレイの果てに、自然な愛を知らぬ自分にとっての「人工の愛」を創造し、この不感症女と分かち合えるのではないかという夢を抱くのだが…。


面白いのが、この墓石女がこの焦らしプレイにより肉に開花して「石と鉄」世界から離脱してしまい、幻滅した彼と「石と鉄」世界を共有できなくなってしまうという展開である。
またそこに俗物界のチャンピオンみたいな男があらわれる。



滝が沈む、肉を芸術が埋めて殺すというようなものか?
しかしここにおける「芸術」がダム建設=科学に対応させられているというのもまた面白いな。

いや、すべて、本当に、ある話である。